行間に任せましょうストッパー

観光地を歩けば、リキシャに話しかけられまくる。「日本人、どこまで行くんだ」「おいジャパニーズ、乗ってけ乗ってけ」みたいに。ちょっとそこまで乗せていってほしいだけなのに「友達のカレー屋いこう」とか「ちょっといいとこ行きたくないか(いいとこがどこなのかはわからん)」みたいに頼んでないことを、一流営業マンのように、売り込んでくる。

結局そんなのに引きづり回せれ、挙句の果てに高い料金請求してくるのが、定番のパターン。いらねえよって断言しない限り本当に引き下がることはない。駅や観光名所に入るときもガイドをしてやるだの、入場料が必要だのなんだのってバンバン話しかけてくるし、こっちが少しでもひるむとそれに乗じてお得意の話術でまくし立ててくる。

この国では、(長く生活したのがインドだったが他の多くの国も当てはまる)きっぱりノー!って言える技術は本当に必要である。謙遜も行間を読むのも、日本人以外とコミュニケーションを取るうえでは何の役にも立たなかった。実際、こんなん誰もが知っていることかもしれないけど(よく聞く話だし)、知っているのと実践してみるのは違う、難しくて仕方がない。無意識のうちに「ここら辺からは行間に任せましょう」ストッパーが発動してしまう。

その点、アメリカ人も韓国人も中国人も、この国で見る日本人以外の外国人はほとんどNO!って言って相手を制する技術をみな持ち合わせていた。自分にはもともとなかった有用な技術をみて素直に尊敬した。

最短距離でのお互いの疎通をゴールとする異国、異文化間の伝達ゲームの中においては、言語というツールが多分一番のキープレイヤーになる。だから言わんでも分かれよなんてのは、プレイヤーの責任を放棄しているに等しい。

唯一の架け橋である言語を介して、円滑なコミュニケーションが成立している。きっぱりとすばやく伝えなければ、ゲームとして成立しない。つまり、行間を読むなんてゲームにおいては無駄で非効率であいまいな作業でしかないのだ(あくまで伝達の話で、文学的表現とかそういう話とはまた別の話)

このゲームの中で、日本人代表として(勝手に)参加している私。先ほど行間を読むことは無駄で非効率であいまいな作業といったが、求められているのはただ単にコミュニケーションのやり方を変えるということではない。相手に対して最適な伝達手段を選ぶことなのである。敵が最短距離でのコミュニケーションを求めているならばそれに合わせた手段で応じるのが、このゲームでゴールにたどり着くための唯一の必勝法なのである、それでは、相手が回り道を希望していたら、すなわち直接的なものを好まなかったらどうか。その時はそれに合わせて存分に「行間に任せましょうストッパ―」を活用していけばいい。そうすればすれ違いは無くなり、お互いハッピーになるのではないか。。

日本人が得意ないわば間接的なコミュニケーションは相手との間に仕切りを一枚入れる感じ。無駄な作業を踏んでいるからこそ、その仕切りを取ることだって簡単にできる。意識すれば自分にもできたし、インド生活後半戦はバンバンものを言うようになっていた。逆に日本以外の国で育った人々が、そこに仕切りを入れるのは至極難しいのではと感じる。日本語を話せる外国人はこっちでも多くいたが、そのほとんどが、外国人が普段話している話し方で、ただそれを日本語で話しているだけだっただからである。

彼らは伝達に際し行間を読むなんて無駄であいまいな作業はしない。すなわち、ゲームを成立させるためには日本人が無駄なステップを飛び越えていくしかないのである。言い換えれば、日本人は日本人を含む全世界の人々とゲームを成立させることのできる稀な存在なのかもしれない。(もしかしたら、広い世界には日本人よりすごいストッパーを用いたコミュニケーションをとる人々がいるかもしれないけど)そんなことを思った。

相手にあったコミュニケ―ションはゲームを成立させるために求められている。音楽に合ったパフォーマンスはダンスをもっと美しくさせるみたいな。(こんな言葉ないけれども、こんな感じのことを言いたかった。)

 

だから、今は使わないけど日本に帰ったらバンバン使っていきたい。嫌いじゃない「行間に任せましょう」ストッパー。

 

ソフトとハード

デリーにもおなじみスターバックスは健在である。インド3大財閥のTATAグループとパートナーシップを組んでるので、TATAの文字が看板で輝いているのはインドならでは。しかし、メニューもお客も同じような感じ。

日本と同じようコーヒー片手に、Macbookをカタカタするインド人で溢れかえっている。彼らが海外メーカーの最新のスマートフォンで会話をするのを、こっそり盗み聞きすると、決まって「はろ?はろ?」と相手に叫んでいた。

インドはヒンディー語公用語であるが、多言語国家であるとともに、イギリス統治下にあった名残で補助公用語で英語が採用されている。すなわち、日本語の「もしもし」を彼らは「はろ」(Hello)というのだ。

なんでそんなに呼びかけるんだろうと疑問に思いながら、その日はスターバックスでぼーっと現地のインド人を眺めて終わった。後日、携帯電話でインドにいる日本人に電話をする機会があり、その疑問はあっさり解消される。

とにかくむちゃくちゃに電話の繋がりが悪いのである。本当に悪い。お互いに電波のいいところにいるはずなのに、音がこもったり、相手の反応にすごいラグがあったり、とにかく電話で話すのも一苦労だった。大きな声で「はろー!はろー!」となんども叫ぶ自分の姿はまさしくスターバックスのあのインド人たちと同じだった。

スマートフォンは最新鋭なのに、電話はうまくつながらない。なんとも奇妙な図式が現代のインドの都市部では起こっているのである。最新のソフトウェア(ソフト)と通信インフラ(ハード)のアンバランスに違和感を覚えまくりなのである。

こうしたアンバランスはほかにもいっぱいある。インドではおなじみ鉄道だって、予約はインターネット上でワンタッチでできて、決済もクレジットカードで一瞬で終了する。スマートホン上にチケットを入れ、いざ乗ろうと思っていた鉄道が24時間遅れで到着する。しかもその鉄道はボロボロで、道中なんども止まったりするなんてことはしょっちゅうある。

タクシーだって、OLAやUberが街中を走り、配車降車システムもスマートフォンを用いることで極めて快適に移動ができる。にもかかわらず、道は凸凹、車線も無くて慢性的に渋滞がつづいている。その中で先を急ぐタクシーやリキシャ同士で接触事故が毎秒のように起こり、クルマには傷が無数についている。

家ではWifiが飛び、クーラーやパソコンが活躍しているが、しょっちゅう停電する。いわゆるウォーターサーバーが店のいたるところに設置されているが、水道の生水はインド人でもおなかを壊してしまうらしい。

ソフトとハードというと少し意味がずれてしまうかもしれないが、なんというか、生活のあらゆるツールのバランスがすごく不安定なのだ。振れ幅がすさまじく大きいというか、土台が不安定な中でめちゃくちゃすごいジャグリングをしてるみたいな感じ。(この表現が自分の中で一番しっくりくる)土台が崩れたら(電気、交通、水道)、ジャグリング(スマートフォンUBERウォーターサーバー)はおろか、そこに立つことすらできなくなるのに、ただひたすらにジャグリングの練習してますみたいな。

そうした土台が崩れることが日常的過ぎて、本人たちは何とも思ってないのかもしれない。自分の乗る電車が27時間遅延した時、隣にいたインド人は「たぶん来週ぐらいにはくるよ」と笑って話してくれた。むしろそのぐらいの肩の力の抜け方がすこしうらやましいなと思ってしまうぐらい自然な話し方だった。

首都デリーでこの状況。いやむしろ、首都デリーだからこそ、こんな状況になっているのかもしれない。(農村部にはWifiも無ければ、Uberもない)近年の急激な経済成長の中で、比較的スピーディーに整備できるソフトインフラと、大規模な資源を必要とするハードインフラのスピード間の違いが、こんな不思議な状況をもたらしていると思う。もう少ししたらおそらく、多くの国が辿ったように、ハードインフラも整備されて(世界中の人たちからしたら、すごいビジネスチャンスだと思うし、インド政府もそっちの方向で動いている)こうしたアンバランスな生活は解消されていくと思う。いつの日か、さらさらと流れるタクシーの中で、鮮明に聞こえる充電ばっちりのスマートフォン越しに「電車が10分も遅延しやがった」と叫ぶインド人を見ることができるのかもしれない。結局叫んでることには変わらないけれども。

 

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前現来世

核兵器から物乞いまで、あらゆるものがコントラスト祭り。最新鋭のメトロの真上を走るボロボロのサイクルリキシャ。スラムから見える高層マンション。

最近の発表によると、インドの1%の富裕層が総資産58%保有保有しているらしい。この状態を世界的には貧富の格差と呼ぶのだろう。外の人々からしたら、この状態は是正されなければならないと思うことだろう。

しかし、インドの人々と共に生活し、話を聞くと必ずしもそれが正解かどうかわからなくなってしまう。(数字的に経済格差があるのは明らかだが)

そもそも、物乞いや比較的貧しいとされる人たち、ジャーティ集団の中で他に比べて稼ぎの少ない職業についている人たちの間で、どうして暴動などが頻繁に起きないだろうか。

単に報道されていないだけかもしれないが、実際に住んでみて、誰もがその身分、その職種に落ち着いている印象を受けた。不満を持っていないというよりは、いるべくしてその場所にいるみたいな。99%の国民が42%の資産を分け合っている状況下では、暴動が頻繁に起きてもおかしくない状況ではないだろうか。

暴動は、なんらかの不平不満が鬱積し、爆発して指導者や統治者、政府などに対し起こるものだと思う。つまり、その要因は、各人が持つ自分の置かれている環境に対する(多くの場合他人と比べた場合の)不満である。

私が住んで眺めたインドでは、この暴動の図式が当てはまるようには見えなかった。先にも述べたが、自分の境遇に落としどころをみつけ、感情の高まりなんて他人事であるみたいな。

それでは、どこに落としどころを見つけているのか。現地のさまざまな人に話を聞いてみると、ほとんどの人が、「前世があって現世がある、現世を生きて来世に繋げていく」という馴染みのない話をしてきた。

つまり、前世での行いや積徳によって今の自分の境遇や立場が決まっているということなのだ。つまりすべきことは、そこに不平不満を漏らすことではなく、来世でさらに報われるために、現世で置かれた自分の立場を全うするということらしい。そして、ヒンドゥー教の下では、そういった身分や職業が固定化されているのも、この宇宙、世界の維持に不可欠なモノであり(組体操のピラミッドでみんなが頂上をやりたがるとピラミッドにはならない)、人間という形に生まれてきた以上、それを全うすることが一種の義務として考えられる。この考え方はしたことがなかった。自分にとってなじみの全くないこうした価値観が、この社会には深く深く浸透していた。

なるほど、そう考えてみると、人々がどこか落ち着きを持って生活していることにも納得がいく。

むしろ、そうした人々に対し、物乞いをなくしましょうとか、もっと稼げる仕事に就かせましょうと、他人が提唱することに疑問すら考えてしまう。先ほどの考え方と彼らインド人の認識からいくと、そうした宇宙や世界の一部分に穴が開き、維持することが出来なくなってしまうからである。それはある種彼らが守ってきた文化の冒涜にあたるのではないかとすら感じずにはいられない。

個人的にこうした宗教的な認識が、先でも述べたような埋まらない格差という問題を複雑にしていると思う。ただ数字だけの話ではないのだ。たぶん。言い切ってしまったけどたぶんそうだ、住んでみて何となくそう思う。(もちろんインドはヒンドゥー教以外にも様々な宗教が存在しているが、大部分を占めているのは事実なので、こうした書き方をしている。この辺はまた他の記事で触れたい。)

いずれにせよ、宗教のパワーには驚かされるばかりだった。街には神様(の偶像)が踊り歌っており、頻繁に祭りが行われ、ひと時も宗教から離れることはない。いかにも非科学的なものだが、非科学的なものだからこそ、長年変わらず人々の寄りかかるところとして機能してきたと考えると、この考え方はどれだけ進歩しても、ぶれることはないのだろうなと思う。

ただ、問題は近年、情報社会が進展して、他の国の情報や、自国の格差を目で見て、耳で聞き、全身で体感できるようになってきたことである。実際にそれを目の当たりにした時も、彼らは同じように落としどころを見つけて暮らすのか。宗教は先ほども述べたように不変であるから、人々の認識や価値観がこれから変わるのか変わらないのか。そこは彼らにしかわからない。外から指をくわえてみることしかできないと考えていたが、自分の来世は当事者になるのかと考えると他人事ではいられない。でも、その時にはこんな記事を書いているのもすべて忘れて、来世報われるためにその職務を全うしていることだろう。

出ない杭は埋もれる

インドでは、屋台のご飯、メトロの切符、荷物検査、あらゆるところで並んでいる途中横入りをされる。人が一人が入れるか入れないかそのぐらいの隙間でさえ、するっと何食わぬ顔で横入りをして来る。

したがって、行列に並ぶときは、バスケットボールのディフェンスさながら前のひとをぴったりマークするか、他の人を手や腕、自分の体を使って制さなければならない。極めて面倒くさい。

そして、とりあえず言っとけ、やっとけみたいな精神がある。もの一つ買うにしろ、リキシャに乗るにしろ、とりあえずむちゃくちゃ高い値段で言ってくる。一緒に働いてても、無茶な要求を何食わぬ顔で言ってくる。そんなやりとりが日常茶飯事である。

先の順番抜かしの時も、注意をするとあっさり引き下がるが、注意をしない限り順番を抜かし続け、ひょいひょいと前に進み続ける。当たって砕けろの体現者みたい。

日本は「出る杭は打たれる」という言葉があるくらい、謙遜が美とされてきた印象がある。みんなで仲良く、同じ共同体、同じ言語圏、同じ民族、同じ宗教(無宗教の人も多いが)の中のひとりとしての意識がそのようなものを生み出してきたのだろう。

でもインドではそんなものは通用しない。日本で生まれ育った身からすると、ううっ、、、となってしまうぐらいぐいぐいくる。それもそのはず、この国は言語も宗教も何もかもばらばらである。(ヒンディー語公用語だが、ごく一部でしか話されていない)しかも人口がとてつもなく多い。そのような中では、ぼーっとしていたらその波に飲まれてしまう。

 

まさに

 

「出ない杭は埋もれる」

 

状態が常なのである。そんな環境で育ったことを考えれば、先にあげた順番抜かしや、言っとけやっとけも納得がいくかもしれない。というか自分はこれで納得した。

また、インドで最もポピュラーな宗教であるヒンドゥー教もこうした国民性に一役買っている気がする。ヒンドゥー教は宇宙の根本原理・万物の本体である「ブラフマン」と、自我の本質「アートマン」との一致に達する事を理想と掲げる。

つまり宇宙対自分の世界である。世界は自分で自分は世界みたいな感じだろうか。日本でいえば「自己中心的」と非難されるかもしれないが、インドではこれが当たり前のものとして身についている。

たしかに、街中の口論なんか人の話を遮って、自分の話をばーっと話すし、クルマの運転だって我先にと追い抜き追い抜かれを繰り返す。例を挙げればきりがない。でも、その逆に自分の主張をはっきり伝え、それが筋さえ通っていれば、多少無茶な要求でもあっさり通ってしまう。自己主張が強い分それがみんなにも浸透してるからか、他己主張にも寛容なのである。

順番抜かしも、「みんな並んでいるから」抜かすな。「隣の店ではこの値段で売ってたから」値段を下げろ。「これが今すぐ必要だから」売ってくれ、買ってきてくれ。どれもこれも論理的に筋道が立っていれば、言い換えると、本人たちが納得いけば、大抵受け入れてくれる。だから遠慮せずにいったもん勝ちなのだ。インド人ほど陰湿という言葉が似合わない人たちはいないかもしれない。それぐらい裏表なくストレートに、かつ論理的に表現をかましてくる。

インド人に伝わらない日本語ランキング第一位はまちがいなく「何となく」だと思う。行間を読むなんて行為は皆無である。常になぜ、どうしてが彼らの行動を決めるキーワードになるのだ。この上なく明瞭なコミュニケーションである。

インドでしばらく生活したが、この日本人の感覚とのギャップを埋めるのには苦労した。ただ、自己主張が強いだけでは先ほど挙げたように「自己中心的」でおわってしまう。実際、なんてわがままなんだと最初は思っていた。

しかし、そこに他己主張を論理的に受け入れることを加えることで初めて、彼らと同じような感覚で生活ができるのである。出ない杭は埋もれていくが、出る杭同士は尊重し合う。これに気づいてから、この国での生活が一歩踏み込んだものになった。

インド人ライアーゲーム

デリーを歩いていると、胡散臭いインド人から声をかけられることが多い。ハッパハッパ、マリファナ吸わないかとか、安いツアーがあるとか。声をかけてきた日本語ペラペラのインド人に、「どうして日本語が喋れるのか」と聞いたことがある。すると彼は「日本人が一番だましやすいからに決まってるだろ」と即答してきた。だましやすい人からより、信頼を勝ち取り騙しやすくするために、必死で勉強を続けたらしい。そこまでの努力とめげない心にすこし尊敬の念すら抱いてしまった。日本人は本当に騙しやすいらしい。インドに旅行に来る日本人に対する定番パターンは以下のようである。

1、街で声を掛けられ断り切れずツーリストオフィスなどに連れてかれ、高額ツアーを組んでしまう。もしくは組んだツアーが適正価格なのかもわからないまま組んでしまう。

この場合は簡単で、正しい価格がどんなものなのかあらかじめ把握して、自分で強くノー!と言えば大抵の場合は防げることが多い。

2、警察や駅員や関係者のふりをして、街が暴徒化している、駅に入るには入場料がいるなどと強めの口調で言ってお金をだまし取る。もしくは電車がキャンセルになった、街には入れないなどと言ってツーリストオフィスへ、、、(以下略)

このケースの場合、騙されていることすら気付かずにインドを出てしまうことも多い。警察や駅員のコスプレまでして話しかけてくるインド人も大勢いる。そういう関係者っぽい人に圧をかけて話しかけられてしまったら信用してしまうのも無理はないのかも知れない。

3、始めは騙さず仲良くなったところで懐に入り込み、最後にぼったくる、急に恐喝する、もしくはカードなどをスキミングでだましとる。

これもかなり多い。仲良くなった(体にして)お金が必要なんだと嘘をつき、金。クレジットカードを貸して欲しい、などと訴えかける。カードなんかを渡さなければいい話だが。でも一度信用しようとした人のことを裏切るっていうのはたぶん人間誰しもしたくない。じゃあ始めから仲良くしなければって思うけど、それじゃあなにも面白くない、せっかく他人と同じ世界に生きてるんなら交流を遮断しててはつまらないからである。結果として、気をつけていたのに騙されてしまった、いいやつだったのに辛いというケースが多い。

詐欺に関しては、そいつが信用に値するかが大きなターニングポイントになると思う。それでは、そもそも、人が人に信用を与えるものってなんなのか。金か、地位か、職業か。いわゆる外的なものなのか。それもある種の信用として日本でもクレジットカードの審査に使われるから信用性の担保には一役買っているのだと思う。外的要因はブレないからである。そこで嘘つかれたら終わりだけど、嘘つかれた時用に制裁(罰則)というものを設けてなんとかしのぐって感じ。2のケースはまさしく権威的なものが言ってるんだから正しいんだろうと思い込んでしまい、信用してしまうことに騙されてしまう原因があると思う。

では、3みたいな、内的要因、つまり人間性とかはどうだろうか。やっぱりそこは話が通じたり、同じ言葉を話せたりっていう些細なことかもしれないが、それを見た瞬間に、人間のメンタル面のガードが下がり、信用モードに切り替わるんじゃないかなって思う。日本語が話せるとか、日本の企業に勤めてるとか、家族の話とか、仕事の話とか、うんうん、わかるわかるって共感を誘えば、信用してもいいかもっていってボロボロ防御壁をくずされ、不注意になって相手にカードとか渡してしまうし、詐欺にもあってしまうのかも知れない。自分がその人を通じて得たその人の知識や経験を元にして、この人が信用に値するがどうかを無意識のうちに判断してるのではないだろうか。

ここまで整理して1つ詐欺の話。

ある旅行客が、身なりの綺麗なインド人に声を掛けられ意気投合。次第に仲良くなり、そいつの家まで遊びにいく仲になった。結婚式にも呼ばれ、その日の夜はインド人たちとどんちゃん騒ぎ。一緒に大麻をやらないかといわれ、今にも、ってところで警察がやってきた。法律上、大麻の使用は禁止されているインド。警察はまずインド人を取り置さえにかかり、ボコボコに殴る。取り押さえたところで次は日本人だってところで、警察の矛先がその旅行客に向いた。そのとき、仲良くなったインド人が「そいつは関係ないんだ!」と叫んだ。その声とともに警察は止まり、そのインド人となにかをヒンディー語らしき言葉で話し合いはじめた。この間、仲の良いインド人とボコボコに殴られているところを目撃し、日本では禁止されている大麻の使用をふっかけられ、日本人旅行客はもう思考が止まってしまっていたらしい。話合いが終わってインド人が言うには、どうやらありったけの金を警察に賄賂として渡せば見逃してくれるらしい。日本人旅行客はカードを限度額いっぱいまで切って結局100万以上払ってしまった。その場はなんとか乗り切って、帰路に着いたが、その後、そのインド人とは音信不通であり、よくよく考えたら警察の服装も正規のものよりもだいぶお粗末なものだったらしい。

つまりボコボコに殴った警察とボコボコに殴られたインド人たちは全てグルであり、かれらはさながらボリウッド映画のように、与えられた役を演じ続け、日本人旅行客から多額のお金をだまし取ったのである。これは先にあげた2の権威的なもの(警察、日本における大麻の禁止)と3の人間性(仲良くなったインド人)の合わせ技である。しかもボコボコに殴ることによって警察とインド人グループという2つのアクターがグルではないことを演出している。お見事というより他に仕方がない。詐欺のパターンを組み合わせることによって、その強度は格段にあがる。相手に考える隙すら与えないスピード感も、詐欺の精度をを上げることに一役買っている。巧妙というか、狡猾というか。 自分もその場にいたら信じてしまうこと間違いない。もうどこからがほんとでどこからが嘘なのか、話しかけてくるインド人がすべて嘘つきにみえてしまうような錯覚さえ覚えてしまう。恐ろしやインドのライアーゲーム

 

しかし、こういった話を整理していて、同時に詐欺に合わない方法を1つ見つけた。

 

「怪しい人には、声をかけられても決してついて行かない」

 

小学校一年生で習ったようなことを、帰りの会で担任の先生がなんとなく言っていたことを、デリーの街はふと思い出させてくれた。

スペシャリストとジェネラリスト

インドの人はパフォーマンスがうまい。営業トークに関しても、リキシャの運転にしても屋台のご飯をつくるにしても掃除にしても全力、フルパワーでパフォーマンスしてくる人が本当に多い。それがたとえどんなに単純な作業だとしても。

しかも、インドのやり方は完全分担制。ホテルでも掃除をするひとは受付をしないし、コックは掃除をしないのである。とあるホテルの掃除のみ担当というように、本当に限られた領域で仕事をしている。いくら人が忙しそうにしてても、自分の仕事じゃなければ知らんぷりということも多い。駅に切符を取りに行った時、長蛇の列をなしひいひいいうインド人駅員の横で、窓口もあけずにソリティアに興じていたインド人を私は忘れない。彼の仕事はたぶんべつのものだったのだろう。

昔から職業選択に関してジャーティが存在し、自分の着く職業が決まっていた。いくらそれが過去のものだといったって、自分の目にはまだなお色濃く残るように見えた。ヒンドゥー教では先祖代々の職業を継承し、自分のダルマ(役割)を果たすことで宇宙の秩序の維持に貢献するという考え方が一般的らしい。日本で「職業選択の自由」たるものを小さいころから教えられた身としては、こういったインド独特の社会に疑問を持ってしまう。

しかし、初めて見たときには異様にも見えたものの、長くインド人と生活する中で見方が変わってきた。実はこの人たち、すごい充実感と共に生きているのでは?と思うようになった。例えば屋台のロティを焼く人。屋台のロティを焼く人にとって、仕事はロティを焼くこと。ただそれだけ。それ以上でも、それ以下でもない。文字にするとなんとシンプルなことか。でも彼らは全力なのだ。チャパティをいかにして焼くか、どうすれば効率よく焼けるのか、上手く焼けるのか、洗練された無駄のない動きでひたすらにチャパティを焼き続ける。いわばロティ界のプロフェッショナル、スペシャリスト、ロティストなのである。自分の仕事に対して、全身全霊をかけて100%の力を出している。自分が行ける枠の中で、最大限フルパワーのパフォーマンスをすることができる人生ほど充実していることはないだろう。いわばインドは、スペシャリストの集まりなのである。仕事の枠は狭いが、その代わり、手が届く範囲の中で全力で仕事をこなしている。

他の仕事をしているところは見たことないが、たぶん掃除も何もできない。というよりやる必要がない。自分の与えられた仕事をこなせばいいのだから、ほかの仕事に関するスキルを身に着ける必要はない。他の仕事を学ぶ必要がなければ、その世界を知らずに済む。他の世界に絶対につかない、知らないということは、自分の仕事を比較する必要もなくなるのである。仕事の割振りが絶対的に決まっている中では、比較などしても意味がないだろう。日本でいういわゆるジェネラリストとか総合職とか職業選択の自由とかそういう感覚とは真逆である。

どちらの認識が正しいだのそういうことを言いたいわけではない。しかし、インドに身を置いて、各人に自由が与えられすぎるとそれはそれで困ってしまう人も多いのではないかと思うようになった。自分の自由を求め続けて、可能性を求め続けて、枠を広げすぎても、結局手の届く範囲しかカバーすることができないのではないか。他の世界を知りすぎることも同じである。他人のことを知れば、嫌でも比較し優劣をつけてしまう。そういうものを気にすることで何か良いものが生まれるとはいささか考え難い。自由とは裏返せば自分に責任が全て降りかかってくるということだから、そのストレスに耐えきれない人だって少なからずいるはずで、、、、

 

話がかたく真面目になった。ここまで考えさせてくれたロティの親父に感謝である。

 

とにかく、インドでスペシャリスト集団なのである。人口がとてつもなく多い国に、ジェネラリストは不要である。日本人が1人がこなす仕事をインド人は6人でこなす。イメージ的にはこんな感じ。圧倒的な数の暴力。

店でロティを焼く親父に注文を言っても無駄で、ウェイターを探してそいつに言わなければならない。テーブルを拭く担当がいなければいつまでたってもテーブルはカレーやチャイがこぼれたまま。こんなとき、なんでもこなすジェネラリストが1人いれば楽なのになって思うのは、小さい頃から日本の感覚を教えられ、育ってきた賜物なのかもしれない。もし、仮にジェネラリストが一人でもいたら、スペシャリストは全ての仕事をその人に全部任せてしまい、一人のジェネラリスト的スペシャリストと多くの無職が誕生してしまう。仕事に関する認識がここまで異なるのは、上で述べた宗教的なものが起因しているのだろう。

同じ人間でも、ここまで認識が異なることに驚きを隠せない。ちなみにロティは1枚4ルピー。ロティの親父が素早く窯で焼いたコストパフォーマンス最強の一品。インド生活中、何度もお世話になった。

クラクションコミュニケーション

インドはクラクションがうるさい。

自動車、バイク、リキシャ、道路を走る全てのクルマが、けたたましくクラクションを鳴らしながら走っている。

本当にうるさい。しかも的確に嫌な周波数でかつ大きな音で鳴らしてくる(気がする)ので時には腹立たしさすら覚えたりする。

その点、日本は本当に静かに走っていると実感する。クラクションを鳴らすことに罪悪感を覚える人すらいるのではないだろうか。実際にインドに来るとそのうるささにびっくりする人も多いようである。

しかし、よくよく観察をしてみると、時にクラクションはコミュニケーションの一部として使われているように見える。例えば、クルマが追い抜きをかけるとき。追い抜く車は「俺今からお前の横抜くからね、気を付けてね」と言わんばかりにバンバンクラクションを鳴らしてから追い抜きをかける。狭い道を車が通るときも「危ないから飛び出してこないでね」と言わんばかりに以下同文。こうしてみると、ただ闇雲にクラクションを鳴らしているようには見えないのである。おたがいが会話をしているかのように聞こえなくもない(極めて好意的に見ればの話)

インドには日本のように明確な車線が存在しない。だからこそ、あれだけカオスでクレイジーな交通状況が生まれる。その中で、ぶつからないように、事故を起こさないようにするために、クラクションを鳴らしあって、お互いにコミュニケーションを取り合っている。なんてアナログで、やかましいコミュニケーション。自分じゃ到底できないコミュニケーションの仕方である。

と思って、レンタルバイクに跨った二秒後には追い抜きのためにクラクションを押している自分がいた。しかも無意識に。人間、郷に入ってしまうと郷に従ってしまうのだなとしみじみと実感した。

道中、道がわからなくなったとき、クラクションの中で大きな声でリキシャに道を聞いたら、みんな普通に叫んで教えてくれた。たまに嘘つかれたけど。これもまたコミュニケーション。インドの人は基本的に道を聞けば教えてくれる。ただいちいち叫ぶのはめんどくさいから、クラクションを鳴らすのは、やっぱりやめてほしかったりする。

 

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ちなみに乗ったのはロイヤルエンフィールドのBullet350。元はイギリスの会社だったがイギリス本社は倒産。インドでは生産が続けられている。クラシカルで時代錯誤なぐらいシンプルな作りがたまらなく愛くるしい。借りたバイクはブレーキランプが折れ、エンジンガードが曲がり、ガソリンコックは閉まらなかった。それでも走ったからまあいいや。