よくわからない身分

この半年間、身分らしい身分が無かった。大学は秋に卒業したが、入社予定の企業には、秋入社というシステムは無く、その次の春に卒業する人と同じタイミングで4月に入社をする必要があったからだ。すなわち、この半年間の自分は、大学生でもなく、社会人でもない、客観的に見たら、よくわからない身分なのである。

 


よくわからない身分の人間に与えられたのは、半年という時間と、それに同等の何もしなくていい「自由」である。ただただ真っ白な時間だけ。そもそも学校も、仕事もないので(もちろんアルバイトを多少していたので全く働いていなかったわけではなかった。しかしやっていたアルバイトは、シフトの概念がまるでなかったので、いまいち、これまでのように働いている感覚がなかった。)「休み」という概念もなかった。そんな日々を過ごしながら、考えてみると、今まではいろんなハードルを飛び越えながら、生活にリズムを与えていたことに気づく。大学の生活や人との関わりの中で、迫ってくるハードルをぴょんぴょん飛びながら、日々をこなしていっていたのだが、この半年間は全く異なり、そうしたハードルが全く迫ってこないのだ。というか、もはや見当たらない。ハードルを越えるときはまっすぐ走れるが、この半年間はその道すらはっきりしないのだ。ならば立ち止まればいいのだと思うのだが、長年の癖は簡単には抜けない。しかも周りの人間は、ハードルをぴょんぴょんと飛び越えているのに、自分だけが止まっているわけにはいかないという感覚に陥る。ここまで周りの目というか環境というものを自分が意識しているとは思わなかった。もしかしたら、心のどこかで思っていたけど、目を背けていただけかもしれない。

 


そもそも「自由」というものは聞こえがいい。社会の授業でも多くの文脈で、人々は自由を「勝ち取った」と習った。きわめてプラスの意味で用いられることが多かったはずだ。なのに、いざ自由になった自分は、その自由を謳歌しようとせず、あえて不自由になろうとしてしまう。何もしなくていいのにも関わらず、何かをしなければならない、自分のやりたかったことをしなければ損だという謎の使命感にかられ続けるのである。そうして、謎の使命感に体を引きずられながら、結局のところ、行ってみたかったところを長期で旅行する日々が続いた。まっさらなスケジュール帳には、フライトの予定、何月何日にどこにいるのか、いつ帰ってきてこの日はどこで過ごすのか、どこに行くのかという予定が刻まれていく。空いた日は、その旅行をするためのお金を稼ぐ時間で埋まっていった。何もしなくていい状態なのに、その状態に押しつぶされそうになる自分がいたのである。忙しく目まぐるしく過ぎていく現代社会の波から外れてのんびりと過ごすことができて、客観的には、幸せと評されることが多い一方で、主観的には、比較的不幸な気分になっていたり、よくわからない責任感や義務感(本当によくわからないものである)に苛まれ、それを何にもぶつけることが出来ず、かわりに不自由になることで、それらを消化していく極めて不思議な状態だった。誰かから言われたわけではないが、確実に誰かから言われたような期待や義務に答えるかのように、日々を過ごしていったように思える。

 


小難しい話が続いてしまった。読んでいて自分でも少し引いてしまった。秋卒業が決まった当初は、もっと身体的にも精神的にものんびりと過ごすつもりだった。しかし、のんびり過ごそうとすると頭が動いてしまう。頭が動くと全身が不自由に向けて動き始めてしまう。(別に不自由が悪いとかそういうことを言いたいわけではない。)きっと、自由を勝ち取った人も同じような感覚、状態になったのではないかと思う。というかそうであってほしい。自由と不自由の度合いは比べ物にならないくらいだが。そうじゃないとするならば、その自由の楽しみ方を教えてほしいぐらいである。そんなことまで教科書には書いていなかったけれども。もしそれを書いた本が出たら、真っ先に買うが、そもそもその本を買うという行為が不自由になっているということなのかを考えると、実はこれは手を出すべき問題ではないのかもしれない。

 

「自由からの逃走」で同じようなことを読んだことがあるが、まさか、自分が疑似的にではあるがそんな状態になるなんて思ってもみなかった。いずれにせよ、モラトリアムを髄の髄まで味わうことが出来たであろう自分は、皮肉ながらに幸せな人間なのだろう。


そんなことを言っていたが、もう少ししたら、会社員という身分に様変わり。こんな日々が懐かしい、うらやましいと思えるくらいには、忙しい日々があわただしく過ぎていくと思うと、名残惜しさもある。しかし、この経験を持って、もう一度、このよくわからない身分に戻ったとして、全く同じ過ごし方になってしまうだろう。それは精神衛生上良いことではないので、この感覚と経験だけを持って、また異なるステージに身を移してなんとなくぬるっと頑張っていきたいと思う。