ストリーミングサービス


東南アジアやヨーロッパを長期旅行している時、長距離移動でバスや電車に乗る機会が極めて多かった。走行中の車内は基本的に暇である。現地の人々を観察したり、車窓から流れる景色に目をやったりして、時間をこなしていくのだが、ざらに移動時間が10時間を超えることもあったため、大抵の場合、そのうちに飽きてしまい、一人旅で特に知り合いもいなかったので、最終的にはイヤホンをして音楽を聴くときがほとんどだった。

 

 

先日、チェコからクロアチアに移動した際も、長距離バスで移動したため、例にもれずこういった時間を過ごした。昔は容量いっぱいに詰め込んだIpodウォークマンで音楽を聴いていたが、Apple MusicやSpotifyが登場してからというもの、ストリーミングサービスの便利さに気づいてしまい、もっぱらスマートフォンで音楽を聴くようになった。旅行中も現地SIMを持っていたので、4Gのサクサクとしたネット環境下で自分の聞きたい曲をなんとなく流して、荒れた道路の上を揺れながら走る車の中の時間をやり過ごした。時代と技術の進歩に感謝である。しかし、こんなに自分の聴欲というか、そういった類の欲を、いともたやすく満たしてくれて、しかもおすすめの他の曲まで教えてくれてしまうことに、偉大さと同時に一種の不気味さすら覚えてしまった。

 


おそらく、生まれた時から、このようなストリーミングサービスに触れて育ったのであればこのような感覚にはならなかっただろう。しかし、残念ながら、自分はストリーミングネイティヴではない。物心ついたときはカセットテープを使っていたし、CD、MDプレイヤーだって持っていた。中学生の時には2GBのIpod nanoに衝撃を受け、150GBのIpod classicを手に入れたときには、もはや自分は無敵だと思った。アスファルトに落として壊したけど。こうして思い返すと、音楽を聴く媒体の変化とともに大きくなってきたことを実感する。聞いている曲は、中学、高校生のときと相変わらず一緒かもしれないけれども、再生する媒体は実に多種多様であった。

 


その時ふと、同じ曲を聞いていても、再生する媒体によって、なにかちょっと変わってくるのではないかということを思った。音質とかそういった話ではなく、もっと身体的な動作の話。大抵の場合、レコードは聞くときに盤面に針を落とさなければならないし、カセットはA面B面を変えるときには裏返さなければならない。CDだってMDだって、アルバムが終わったら入れ替えないといけない。同じものを聴くといっても、再生の前に入る動作は媒体によって異なる。

 


自分の中学時代を彩った2GBのIpod nanoだって同じことが言える。2GBという容量はせいぜい500曲ぐらいしか入らない。(当時は500曲も!と驚愕していた。)パソコンから同期をするとき、確実に容量以上に入れたい曲で溢れてくる。したがって、Ipodに曲を入れる前に、脳内では毎回、「どのバンドのどのアルバムを入れるか選手権」が開催されていた。毎回W杯決勝戦並みに白熱した戦いを見せながら、泣く泣く選考から漏れたバンドのチェックマークを外し、同期をかけていた。選抜を乗り越えた曲は、ゆく先々でひたすらに何度も何度も聞き倒された。その後、持ち運ぶ曲をガラっと変えると、同じ空間に過ごしているのに全く違う新鮮な世界が見えたりもして、思い返してみると、容量に縛られているわりに、その不自由さを楽しんでたのかと懐かしく感じた。

 


ストリーミングで何万とあるリストから親指一つで選んだ曲と、「脳内どのバンドのどのアルバムを入れるか選手権」を乗り越えて聞く曲。中身は同じでも、何となくそこにある動作とか思い出とかドラマとか、そういったその曲の再生と同時に脳内を彩るものは、なんとなく違うのかなと思う。もしかしたら、レコードを聴いていた世代、カセットテープを聞いていた世代の人々、もっと遡れば、ラジオで音楽を聴いていた世代や、教会やホールで音楽を聴いていた世代も、その都度登場する新しい再生媒体に対して、同じ感覚を持っていたのかもれない。そこに古臭さを一ミリも感じないのは、再生という動作に対して他の媒体では代替できない一種のドラマ性があるからだろう。これだけ技術が進歩していても人間の根底にある感覚はそう簡単には変わらない。音質の面で差はあるかもしれないが、こうした点において、良し悪しは決してなくそれぞれが絶対的に良いものである。みんな違ってみんないいとは、まさにこのことなのかもしれない。

 


映画やCM、小説などで、レコードに針を落とす描写が、ゆったりとした贅沢な時間の使い方の表現としてしばしば用いられているのを目にする。いつの日か、自分と同じ世代を過ごした人々が、制作者として「脳内どのバンドのどのアルバムを入れるか選手権」の描写も何かの表現の一種として用いていくのだろうか、一体それはどういった情景の表現なのか。そんなことを考えていた時には、バスは音楽の都ウィーンに到着し、休憩時間となっていた。さすがに疲れたので、外に出て一伸び。そういった表現ができているころには、自分ももっと金銭的にも、教養的にも、もっと余裕があって、ウィーンで下車してオペラでも鑑賞できるようになっていればいいなと思った。それと同時に、2GBのIpod nanoが教えてくれたこうした感覚を、その時も忘れずに持っていたいとも感じた。異国の地で、何となく懐かしさに浸っていたが、乱暴に出発のクラクションが鳴ったので、バスに乗りなおす。イヤホンをつけなおし、スマートフォンで曲を選んで、バスはクロアチアへと走り始めた。