浮遊感

昔から、知らない場所をふらふらすることが好きである。一般的にはそれは「旅行」と総称されるかもしれないが、小さい時から、自転車に乗って近所をぐるぐる飽きもせず、一日中回っていた。大学生になって免許を取ってからは、行先や方角だけ何となく決めて、適当に荷造りをしてひたすらにバイクを走らせたり、青春18きっぷを使って、朝から晩まであてもなく電車に乗ったり、飛行機の往復券だけとって、海外のさまざまな場所を、特に目的もなく訪れたり、年齢を重ねるにつれて、行動範囲は飛躍的に広がったものの、本質的には、自分のやっていることは変わらなかった。

 


だからといって、「じゃあ旅行が好きなんだね」と言われるとハテナが浮かぶ。ゲストハウスで働いていた時も、本当に様々なタイプの旅行者を見てきて、旅行というものが千差万別、百人いれば百、飛び越えて百五十通りくらいあるのではないかと思ってしまう。だからこそ、「じゃあ旅行が好きなんだね」と言ってくれた人と自分との間で、お互いの「旅行」というものの形や内容物を、完璧に共有できているとは到底思えないのである。しかし、そんなことを言っていると時間と口の体力だけを浪費し、一生会話が進展しないので、とりあえず「うん」と言ってしまう。時間が無限にあればもう少し努力するけど、結局、疲れて「うん」と言ってしまう未来しか見えないので、今のままでいい。

 


それでは、自分は何が好きなのだろうか。一体何を求めて、わざわざお金と時間を払ってまで、ふらふらとどこかに行こうとしているのだろうか。美しい景色、おいしい食べ物、人とのコミュニケーション、自分探しなど、旅行をテーマにさまざまなキーワードが浮かんでくる。しかし幼少期の実家周辺の住宅街から、海外の国々までを貫くような本質的なものは、そのどれにも該当しない気がしてしまう。

 


これまでのふらふらしていたどの場面を切り取っても、自分の全く知らない、馴染みのない場所に行くこと、自分を含めそこに存在するすべての人とモノの行動が、自分の頭の中で予定されていないということは共通している。すなわち、訪れた場所では、自分は確実に「よそ者」なのである。そこの生活圏にとって、本来であれば交わることがない人間がふらふらと迷い込んでいるのである。当然、その生活圏には特有の文化や慣習が大なり小なり存在している。同じ台本のもとで、生活が演じられているようなものである。しかし、「よそ者」はそんな台本など与えられず、急に舞台上にポーンと放り出され、またふらふらと移動するとともにその舞台を降り、次の舞台に立つのである。観客席からみると、周りと比べて、自分だけがふわふわと浮いた存在になっていることがわかる。



逆に言えば、自分が日常的に存在している生活圏の中では、意識していないかもしれないが、自分の役割、自分の演じる役というものが存在しており、多少のアドリブはあるにしろ、その台本に沿った行動が求められる場面が多い。それは決して悪いことではないし、仮にそうでないとしたら、生活が回らない。

 

 

つまり、知らない土地をふらふらと訪れることで、住んでいる生活圏では味わえないある種の強烈な“浮遊感”が味わえるのかもしれない。自分が確実にそこに存在するのに、同時に、確実にそこには存在していない。自分だけに台本が配られていない世界。決してその日常には入り込むことが出来ず、連続する非日常のなかをふわふわと、さながら遊泳でもするかのように流れていく。文化や慣習はもちろん、下手をしたら言語などのコミュニケーションすら円滑にできないため、猛烈な不安に襲われる。それにも関わらず、逆に、そのぽっかりと空いた周りとの距離が、自分を宙づり状態にし、極めて心地のよい不思議な浮遊感を自分にもたらすのである。

 


この“浮遊感”を求めて、性懲りもなく、ふらふらと様々なところに行ってしまうと考えると何となく納得がいく。小さいころからのリピート率を考えるとかなり中毒性が高いものであることは間違いない。しかし、浮遊感の中に包まれ続けると、そのふわふわした世界に酔ってしまう瞬間が必ず訪れる。非日常はどこまで行っても非日常であり、進みすぎて、軸足が日常から離れると、子供の手から離れた風船のように、浮遊を飛び越え、あらぬ方向に進んでいってしまうのだ。気持ちのいい浮遊は、紐を止めておく場所があるから成り立っているのだ。家に帰れなくなってしまっては困る。台本から逃れて、ふらふらと外に出たにもかかわらず、そうしてまた、自分のホーム劇場に戻ってきてしまう。しかし、あの強烈な浮遊感が忘れられず、ふらふらと外に出ていっては、酔っぱらって帰ってくる。

 


そんな繰り返しの中で、ホームのありがたみにも気づかずに、これからも生活は繰り広げられていくのだと思う。