cow in my mind

牛が食べられない。噂には聞いていたが、デリーでは、本当に牛肉を食べることが出来ない。レストランの「Beef」の文字に心を踊らせ、注文して来た肉が水牛、すなわちバッファローだったなんてことは日常茶飯事。なんてことない焼肉の写真がSNSに上がるたびに、こぶしを握り締めるほど、牛肉に対して飢えていた。半分ぐらいホントの話。

ヒンドゥー教では、牛は神様を乗せてやってくる神聖な動物。だからこそ、その牛を食べることはおろか殺すなんてもってのほか。最近では、保護区に隔離されていることもあるが、それでも街中では、車とともに多くの牛が文字通りの牛歩をかましている。州によっては食べられるところもあるが(実際ゴアやケララ州では正真正銘のビーフカレーを食べることが出来た)牛を食べることを法律で禁じている州も多い。天下のマクドナルドもバーガーキングもチキンやマトンでバーガーを提供する徹底っぷり。

 

こんなに大事にされながらも、牛が荷物を引く姿はなぜか何度も目撃した。今となっては減少したが、昔はもっともっと多くの牛車が活用されていたらしい。 

それにしても、なぜ牛が食べられないのか。牛肉が食べたすぎて(電車移動が暇すぎて)真剣に考えたことがある。「ヒンドゥー教では、牛は神聖だから」と教えられてきたし、多くの人はそう答えるだろうが、この答えにはいまいちピンとこない。

 

そもそも、別にヒンドゥー教を創った時点、原点で、牛のみを神聖にする必要はどこにあったのかと思ってしまう。動物全般を、神様の乗り物にしてしまうことだってできたはずである。それが動物である意味もなくて、船でも、紙飛行機でもよかったはずだ。

それなのに、なぜ牛に神様を乗せたのか。ヒンドゥー教をインドで形にした人々は何を考えていたのか。その前に壮大な話を整理しておきたい。生き物、種としてのゴールとはなにか。一つのゴールとして考えられるのは繁栄、つまり数を増やすということである。人間もまた例外ではなく、人数が増えるということがすなわち、生き物としての繁栄を示す。現代において、このような考え方はほとんど見られないと思うが、ヒンドゥー教が創られ、定着し始めた時代には少なくとも今よりも人々の間で、繁栄の意識は強かったのではないか。別にその時代の人としゃべったことはないけれども。

繁栄というゴールに向けて、必要なものは多くある。その中でも、住処を広げるための動力と、増える人々を養うための食料は必要不可欠だろう。トラックや貨物列車はおろか自転車すら無いこの時代、人よりも力の強い動物は貴重な動力として一役買っていた。しかも、人と同じスピードで多くのものを運べる牛は、動力として極めて重宝されていたことだろう。

そして、住処が広がるとともに、増える人々と、動力としての牛。彼らが生きるためには、安定して供給される大量の食料が必要となる。そのため、広がる土地を利用して農耕が行われ、穀物や野菜が食べられるようになった。牛も草食動物だから、農耕を通じてエサを供給することが可能になる。

つまり、牛は動力として考えられていて、食料としては考えられていなかったのではないか。動力としての頭数をへらして牛を食べるよりも、穀物や野菜を食べながら牛と共存していく方が繁栄に向けては効率的だと考えたのではないか。

 

仮に牛を食べるようになったとしたら1匹の牛と引き換えに、

 

1匹の牛を育てる食料+代わりに動力となる牛一匹の食料+人間の食料

 

が必要となる。

 

しかし、牛を食べずに動力として育てていけば

 

1匹の牛を育てる食料+人間の食料

 

のみで済む。プラスアルファ代わりに動力となる牛1匹のの食料を、さらに人間や牛の食料に回すことができる。

つまり、牛を食べないことによって、動力と確保するとともに、より効率的に食料を人間の間で回すことができるのである。動力としての牛を殺して食べることは繁栄においては何も意味のない行動なのである。

でも、牛を食べてはいけないよなんてストレートに禁止しても、ひとたびその味や栄養に気づいてしまえば、反発も起こってしまうかもしれない。

だからこそ、時の統治者は、ヒンドゥー教を通じて神様をそこに乗せることによって神聖なものとして人々の心に牛を根付かせ、人の内面から牛を食べさせないように認識を持たせていった。

のかもしれない。

同時に、不殺生を謳って動物を食べないようにさせて、農作物のみを栽培させることで効率的に食料を分配させていった。

のかもしれない。

本音を隠して宗教という建前のもとで、人々の生活を繁栄に適した形に変えていった。

のかもしれない。

その結果、莫大な人々と生活圏を生み出すとともに牛が食べられない状況につながっている。

のかもしれない。

 

かもしれないばっかりが続く単なる想像の話だが、この結論が個人的には一番しっくりきた。宗教というものはすごい。信仰する人の心の中に牛という特定の生き物のみを住まわせ、保護することすら出来るのだから。動物愛護団体もびっくりである。牛乳石鹸を初めて見たときのインド人のびっくりした顔は、今でも覚えている。彼らの心の中には常に牛がごろんと寝転んでいるのである。

電車が遅れて、よくわからないところでずっと停車している。おぞましく暇だったのでここまで考えて時間を潰したけれども、動く気配がない。結果として定時から27時間遅れで到着した。牛に引っ張ってもらった方が早かったかもしれない。

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街中を闊歩する牛